続澁声徹語 第32回 「橋本虎六先生」

 コロナ禍が長く続いているが、この中で「アンジオテンシン変換酵素」という言葉が出てきて、橋本虎六先生のことを思い出した。先生はアンジオテンシンを

高血圧の治療薬として開発された薬理学の大御所であり、私が勤務した秦野研究所の二代目の所長をされた。コロナ禍で、先生のことを思い出すとは全く意外な

ことである。

 

 初代所長の石館守三先生は元国立衛生研究所の所長であり、私の上司だった岩原繁雄先生とのラインが形成されているようだった。そこに東北大学医学部薬理

学の橋本先生が加わり、この流れが大きく変わってしまった。このことがセンターにおける私の人生を大きく変えることになった。私の留学は、留学第1号を薬

理学から出したいという先生の一言であっさり頓挫した。それだけならいいが、先生の後を継いだ教え子によって、センターの在り方が全く変わってしまった。

 

 センターの旅行で石和温泉に行ったときに、橋本先生は角ばった鞄の上で教え子の論文を校閲されていた。私は思わず、「旅行なのですから、おやめになって

は如何ですか」と言ってしまった。先生はこの一言に激怒され、私に発言の撤回を求められたが、私はそれを断った。その後の宴会では気まずい空気が流れ、事

務部長から私に「辞表」を書くように申し渡しがあったが、私はこれを断固拒否した。

 

 先生は「胃がん手術」で入院中に、錯乱を起して、点滴が外れた状態のまま廊下で絶命されていたということだった。鎌倉のご自宅での密葬には、おいの橋本

竜太郎外務大臣も列席した。彼はその時SPを付けて来ていたのだが、その後の予定がなかったらしくいつまでも帰る気配がなく、我々もその対応に大いに苦労し

た思い出がある。

 

橋本先生はやはり大学者であり、自ずと風格があり、私など足元にもよれななかった。脳科学をやることになり、先生はRIの講習を受けられた。もっとも始まる

や否や居眠りされてしまったが。会議などでも先生とは全く話が合わなかったが、大学者としての雰囲気が感じられ、十分に敬愛するに値する存在であった。

    寒昴学びの道のひとすぢに      徹  (11/20/20)

 

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