続澁声徹語 第19 回 「横浜の住まい」

 横浜には、足掛け5年位住んでいたことになる。結婚後、戸塚に予定されていたセンターの研究所の建設が、地元住民の反対などで遅れ、ひとまず当時世田谷の用賀の、

「国立衛生試験所」に研究生として行くことになっていた。そこで、練馬の叔父に頼んで東横線の港北区の綱島に新築アパートを探してもらった。

 

 港北区というので、港の見える高台を連想したが、住宅地と里山が混じっているだけの場所でがっかりした。通勤のバスは、駅までに大渋滞にはまり、降りて歩いたこ

とも再三であった。綱島駅からは「田園調布駅」まで行き、東急バスで試験所に通った。「田園調布駅」はさすがに立派だと思ったが、角の立派な家が、ホテル火災を起

こして社会問題を起こしたY氏の邸宅と知って大いに驚いた。

 

 住んでいた住所は「高田町1,356番地」であったが、この地番が数百軒程度全く同じであった。それでもちゃんと郵便類は届いていたのは不思議だった。引っ越してす

ぐに、東京で学会があり、後輩たちが我が家に泊まることになり、O君だけが遅れて別に来ることになった。なかなか彼が来ないので心配していたら、妻がごみ出しに外

に行ったときに、偶然O君と顔を合わすことが出来た。彼は数軒同じ番地を聞いて歩いたが、わが家が分かる人はいなかったという。この地番の問題はその後10年以上た

ってやっと解消されたということである。

 

 その後、公団住宅の抽選が当たり、「すすきの団地」の賃貸に入居した。男性に住所をいうと、「いい所にお住まいですね」とニヤリとされた。私の棟は、その団地の

一番端で道の向こうは川崎市麻生区であった。秦野の研究所に行くための小田急「柿生」駅へのバス停に行くには、人家のない山をひとつ越さなければなかった。夜に車

が止まり、さまざまな押し売りによく呼び止められたものだ。

 

今でも、時には横浜駅に行くことがある。この駅は不思議なことに、私が横浜に来て以来、どこかで工事をやっている。先日も行ったが、まだ工事の案内放送をやってい

た。先日、バルセロナで「サクラダファミリア」を見たが、2026年完成と言っていた。横浜駅はまるで「桜木ファミリアである」。私の好きだった東横線の地上駅は、

すでに地中深く潜って「みなとみらい線」になってしまった。

     梅雨空に氷川丸から昼汽笛   徹       (08/14/20

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