続澁声徹語  第16 回 「付知(つけち)」

 先日、熊本在住の方とのメールのやりとりから、彼が岐阜県の中津川の出身であることを知った。中津川は私が少年時代に夏毎に訪れた付知に行く時に、

北恵那鉄道(現在は廃線)に乗り換えた駅があった懐かしい町である。付知は今では中津川市に編入されたが、付知は私の第二の故郷と言ってもいいだろう。

 

付知には叔父が養子にいっていた。その家はいわゆる「万事屋」で、衣服品が主であったが、本やたばこ、塩まで販売していた。お手伝いでたばこを売った

ことや新着の少年雑誌などを真っ先に読むこともできたことを覚えている。叔父は工業専門学校で航空工学を習得した。しかし、戦後は航空産業が禁止とな

り、祖父の縁故でデパートに勤めていたという。この店も中津川に大きな店ができて以来、客が少なくなり、子供たちはその後を継がないで閉店してしまった。

 

付知は下呂に向かう街道沿いの細長い町で、木曽川に合流する付知川がそれに沿って流れていた。付知に行くと毎日の様にこの河で泳いだものだ、夏でも水が

冷たく、何かの鉱物が溶けているのか、青く澄み、眼に刺激があった。私はここで泳ぎを覚えたようだが、ただ流されるだけの水泳だったようだ。

 

この川の上流は、いわゆる木曽ヒノキの山林で、昔は尾張藩が厳しく管理し、「杉一本、首一つ」と言われていたそうだ。まだ叔父の家の裏山を、これらの杉

を運ぶ森林鉄道のトロッコが、長閑に行き来していた。北恵那鉄道の「下付知駅」には、たくさんの切り出された杉の丸太が何時もたくさん置いてあった。

 

付知には、また叔父の兄の妻の生家もあった。この家はかって、このあたりの庄屋で、その広大な屋敷は、平屋だが当時まだ残っており、夏でも長く居ると寒

い位であった。子供の目からみても、この両家の力関係は明らかで、昔と今とで逆転したことが感じられた。そこのおばあさんの五平餅はとてもうまかった。

 

通りに小さなNという洋菓子屋があり、あまりぱっとしない店だった。しかし、最近若い主人がネット販売を始めるや否や、ある商品が飛ぶように売れだし、

一躍日本中に名を知られるようになったという。ネット販売とは妙なものである。

   ゆっくりと長きトロッコ木曽の夏   徹  (7/22/20

inserted by FC2 system