私の研究の旅:GeneticsからEpigeneticsへ

                    “Tox 21” 研究所  澁谷 徹

2.兵庫農科大学(現神戸大学農学部) 前編

私の大学受験の結果は目覚ましいものではありませんでした。名古屋の名門校であった旭丘高校を

卒業しましたが、現役では神戸大学経済学部に振られて、京都での浪人生活を1年間送りました。

夏の間には、当時門跡であった親類のご厚意で、三千院にも寄宿させていただいくという貴重な

経験もしました。一浪後は京都大学の経済学部を受けて失敗し、公立の兵庫農科大学(農大)の

畜産学科と大阪外語大学(現大阪大学外国語学部)のロシア語科には何とか合格しました。農大

には当時同じ兵庫県立であった、神戸医科大学(後に神戸大学医学部となり、Nobel賞の山中教

授が卒業された)の医学進学課程(医進)を受験し、それには落第しましたが、やっと畜産学科

に合格したという経緯があります。医進は同じく県立の姫路工大(現在は兵庫県立大学)にもあ

りました。農大は戦後の食糧難に対して急遽、何の母体も持たずに設立され、最初は理農学部を

作ることが考えられていました。京都大学の若手や台北帝大などの退職者が多く設立に参画した

ようです。畜産学科は和牛の飼育が盛んで神戸牛の素牛を生産する但馬地方からの要望で急遽増

設されたとのことでした。京都大学の経済学部と大阪外国語大学(外大)のロシア語科を受験し

たのは、まだ残り火がくすぶっていたマルクス経済学を志向していたことによります。父親(東

京大学経済学部出身)は、このことを察していたらしく、強く農大への進学を薦めました。現役

で受けた神戸大学の経済学部は近代経済学の西の牙城であったことを考えると、この間に私は大

きな思想的な転向をしたことになりますが、今となってはその理由は覚えていません。私も入学

前に大阪外大の時間割が送られてきて、授業の半分以上が外国語の授業であることを見て、外大

に進学することに疑問を感じ、思い切って農大への進学を決意しました。それに当時大阪外大は

生野区にあり、いわゆるコリアンタウンに近く、思い描いていた学生生活とは縁遠い環境でした。

私にはこれが文科系と理科系との大きな分かれ道でしたが、あまり深く考えることなく理科系の

片隅にある農学部を選んだということになります。農大には前に述べたように、教養課程を終え

ると、神戸医科大学への編入試験があり、毎年数名が医進へ編入しました。開業医の子息がほと

んどのようでした。入学当時、私もその復活コースを考えていましたが、いまさら受験勉強のよ

うなことはしたくないと考え直していました。牧歌的な農大での学生生活を、私は思いのほか享

受していたようです。圃場で麦わら帽子とよごれた白衣の教官や学生が黙々とに観察データを取

っているのを見ると、こんな生活もいいのかなと考え始めていました。私は就職することなどま

ったく考えずに、漠然と大学院に進んで、何か生物学の研究をしてみたいと思うようになりまし

た。また私は左利きで、当時左利きは手術などの関係で医者には向かないといわれていました。

私はまた、医学部を出るとすべての医師は臨床医学に進むものと考えており、基礎医学という分

野が存在することはほとんど知りませんでした。後年、安全センターに就職し、医学士(M.D.)

支配の下に絶対服従という状況に置かれてはじめて、この私の選択が正しかったのかどうか再

考されられました。また、私が現役では神戸大学を失敗したのに、農大が神戸医大と共に神戸

大学に移管され、神戸大学農学部になったことで、私は神戸大学のOBとなっているのも何だか

妙なことです。農大はいわゆる田舎の代名詞である「丹波篠山」にあり、学舎は旧陸軍の歩兵師

団の跡を使用していました。篠山はかっては小さいが軍都であったようでした。丹波篠山は旧青

山藩6万石の城下町でしたが、住民が鉄道の敷設に反対したために、大阪からの福知山線(当時S

Lで2時間もかかっていた)が街はずれを走っていました。当時はマツタケ、丹波栗、黒豆、山の

芋さらにイノシシなどの農畜産物が有名な全くの農村でした。同窓会で篠山を再訪すると 今で

は立派な高速道路も出来て、大阪もずっと近くなり、立派な観光地となっていることに驚きまし

た。当時人口2万足らずの篠山に700人程度の学生・教職員がいましたので、相当な学都であっ

たわけです。学生は汚れた白衣姿で自転車に乗り、狭い町を我が物顔に往来していました。

専攻は遺伝学とは関係が薄い「家畜生理学研究室」を選び、卒業論文は「メスニワトリのホルモ

ン処理による肥育実験」を山内隆司さん(元アップジョン製薬)と二人でやりました。ホルモン

剤の肥育効果は認められたのですが、今から思えば「環境ホルモン」のことなど、まったく考慮

されておらず、よくこんな実験をしたものだと思います。この研究にはたしか武田薬品からの

委託費が出ていたように記憶しています。実験は半年で簡単に終わったので、当時には珍しく、

山内君と分担して英文の卒論を書き上げました。在学中に教養課程の植物学の堀江格郎先生の

主催する「分子遺伝学」という講読会に入り、WatsonとCrickのDNA模型などを勉強したこと

で、分子遺伝学への興味が深まりました。私には遺伝学の新しい時代が到来したものと考えら

れました。

澁谷 徹 259-0312 神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜1933-45

 ”Tox21"研究所主宰

 日本環境変異原学会名誉会員  日本エピジェネティクス研究会会員

 環境エピゲノム研究会前代表幹事

  Tel/Fax : 0465-63-8867

  Mail address : to-shibuya@amber.plala.or.jp

   “Tox21”研究所:t-shibuya.tox21@zpost.plala.or.jp

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