Epigenomic-Developmental- Toxicology の提唱       

 澁谷 徹・堀谷幸治 (“Tox21”研究会)   t.shibuya.tox21@zpost.plala.or.jp

 “Toxicology”(毒性学)は総合的な応用生命科学である.その目的は,最新の科学知識・技術を駆使して,新規あるいは既存の化学物質,

薬品および食品などのヒトへの毒性を予測し,それらのリスクを回避あるいは軽減させることである.ヒトは他の生物種とは異なり,その

優れた頭脳をもって,多くの化学物質を開発し,その利便性を得てきた.しかし,ヒトもまた生物であるので,これらの化学物質による毒性

によって,種々の有害作用を受けてきた例がこれまでも多く認められている.これらの化学物質から,38億年にわたる生命の進化の過程を経

て創生された生物であるヒトの健康を,現在あるいは将来にわたって保全することは毒性学の重要な任務である (1).

 “Toxicology” の概念や技術は,科学の進歩に伴って改革されることは当然である.近年の「遺伝子の構造と発現」をめぐる著しい研究の進歩

は,毒性学に根源的な変革を迫っている.最近生物学において,“Epigenetics” という現象が大きな注目を浴びている(2).最初に“Epigenetics”

という概念を提唱したのは,発生学者のC.Waddington(Edinburgh Univ.)である (3).

  彼は1942年に,動物の個体発生を「遺伝子」の統合的な発現の制御によるものと考え,発生学を支配していた概念である ”Epigenesis” (後生学)

と”Genetics” (遺伝学)とを組み合わせ,“Epigenetics”という術語を提唱した.彼は,“Epigenetics”を,「遺伝子と環境との相互作用で,生物

に表現型の変化をもたらす現象」であると記述している.現在では、“Epigenetics”は,遺伝子の構造的な変化 (突然変異) を伴わないで,DNA

塩基のメチル化やヒストンのアセチル化などによって,遺伝子の発現調節を受ける現象であると定義されている.“Epigenetics” は,個体発生や

成体の生命の維持に大きな役割を果たしていることが知られつつある.”Epigenetics” は遺伝子発現を高度に調節している,生命にとっては根幹

的な現象である.”Epigenetics”は,最近の遺伝子転写 (“Transcriptome“) および翻訳 (“Proteome”)などのデータの蓄積に伴って,その重要

性が認識されつつある.

 また,多くの化学物質などの外因性物質によって,“Epigenetics” が変化し,特定の遺伝子からのたんぱく質合成が撹乱されることが知れつつあ

り,これらを総称して ”Environmental Epigenomics” (EEG:環境ゲノム撹乱)と呼んでいる (4).

EEGは,遺伝子の最終産物であるたんぱく質合成の観点からは,突然変異と同様な効果を生物個体に与えることになる.種々の環境化学物質,薬

品および食品などによって,EEGが容易に生起されるデータが蓄積されつつある(5).それらの化学物質によるEEGを基盤に,それらの生物影響を

研究する分野が ”Toxicology”である.また,発生個体過程における ”Epigenetics” は,成体におけるよりも高度に制御されていることは自明であ

る.そのため,発生中の個体は,種々の化学物質によって,成体の細胞よりもより大きなEEGによる影響を受けることになる.また,”Epigenetics”

は細胞分裂を経ても維持されるので,生殖細胞においても,体細胞と同様にEEGの影響を受ける可能性がある.

 これらの点に関して重要な結果を示したのが,Skinner ら(Washington State Univ.)によるScience (2005) 誌の論文であった (6).彼らは発

生15日齢のラットの雄胎児に,経胎盤的に抗アンドロゲン作用を有する農薬,Vinclozolin (VIN) を投与し,以後4世代にわたって,無処理メスラッ

トとの交配によって得られた雄ラットの生殖能力を調べた.処理された生殖細胞は始原生殖細胞 (PGC) 期にあたる.その結果4世代にわたって,雄

ラットの生殖能の低下が認められ,その原因はVIN投与による,各世代における雄生殖細胞での精子形成関連遺伝子のメチル化によるEEGであるこ

とを証明した.つまり,彼らの実験では,ある世代における生殖細胞のメチル化が,4世代にわたって伝達されたことになる.

彼らはまた,ラットにおける種々の疾患の発生頻度をヒトの発生頻度と比較し,ヒトの種々の疾患も経世代的に伝達される可能性を示唆した (7).

この前後に,放射線や化学物質処理によって,この結果を支持する結果が発表されつつある.しかし,Skinnerらの実験結果については,投与され

た化学物質の用量が通常の使用量に比べてはるかに高く,ヒトに対する影響については,用量―作用反応に立脚した考察などが必要であろう.また,

その結果の再現性については,異なった系統ではこれらの現象を確認できなかったとの反論もなされている.しかし,彼らの結果から,ある世代に

暴露された物質に次世代以降の生殖細胞においても考慮する必要性が示された.人類は,これまでに長い世代にわたって,化学物質の合成や原子力

の開発によって,人工の物理的あるいは化学物質を使用し,それらの恩恵によって地球上での繁栄を謳歌してきた.Skinnerらの論文は,それらを

無批判に使用することについての,非常に大きな問いかけであった.この報告は,世界中の広範な研究者に衝撃を与えた.私もその一人であった.

私はこれまで,強力なエチル化剤であるN-Ethyl-N-nitrosourea (ENU) によって,マウスPGCに高頻度に突然変異が誘発されることを,特定座位

試験 (SLT) やMutaMouse試験を用いて,世界で最初に報告した (8).それまでは,突然変異として固定されなかった放射線や化学物質によるDN

A塩基の修飾は,次世代の生殖細胞形成期に消去されるものと考えられてきた.私はENUのPGCにおける突然変異の誘発を確認したが,EEGに

ついてまでは考えてもみなかった.私は得られたマウス変異体の詳細な塩基配列の解析まで行っていなかったので,得られた変異体が,真の突然変

異によるものか,あるいはEEGによるものだったかと問われたら,明確に回答することは出来ない.

 化学物質の胎生期動物への経体盤投与によって,世代を超えて生殖細胞にEEG”が伝達されたという上述のSkinnerらの論文は,画期的なもので

あった.しかし,経胎盤投与によって次世代の体細胞が何らかの影響を受けることは,生殖・発生毒性学では自明のことである.上に述べた私のPG

Cでの研究は,”Mouse Spot Test”という,胎児期処理によるmelanoblasts (色素原細胞) の体細胞突然変異の研究から始まった (9).その実験で,

生まれた雄マウスの生殖能がENUの用量に依存して低下するのを偶然に発見し,1979年にPNASに発表された,Russell ら(ORNL) のENUによる

精祖細胞における高頻度の突然変異誘発の論文に刺激を受け,PGC期のSLTを実施したのであった.ヒトにおいても,発生中に親から経胎盤的

に受けた化学物質や,栄養成分の過不足などによって,胎児期の厳密にプログラムされた遺伝子発現が撹乱される例が知られはじめている.

最近では,個体の発生中や哺乳期での母親の行動さえもが子の遺伝子発現に影響を与え,成・老年期にその影響が発現されることが報告されている.

多くの成人病の素因が,受精時,胎生期さらに乳幼児期に形成され,成長期あるいは老年期を通してこの状態が維持され,種々の疾患が形成される

という「成人病胎児期発症説」を J.P. Barker が1986年に提唱した(10).

   現在では,この考え方はさらに発展し,「健康と疾病の素因は受精時から乳幼児期に決定されるという"Developmental Origins of Health

and Diseases (DOHaD)という概念となり,これは 21世紀最大の医学研究のテーマとさえ言われている(11).これらの現象の原因の多くを占め

るものが,EEGであることは疑いがない.臨床医学では,糖尿病,高血圧,心臓疾患,精神神経疾患さらに種々の行動異常などの,多くの疾患の

原因が DOHaD で説明可能とされている.

   最近,E. Menegola (Milan Univ.)らによってboric acid, MS-275, Sodium Butyrate さらに Sodium Salicylate など良く知られている化

学物質による催奇形性の発現機構が,Histone の脱アセチル化酵素を阻害することによる高アセチル化によることが示された.これらの現象が,体

節や心原基において高頻度に確認されている (12).すなわち,頚椎の形成異常や心奇形の誘発もEEGによることが示されつつある.実験奇形学

の分野では,生殖・発生毒性学の研究者による長年にわたる膨大なデータが蓄積されている.現在では,化学物質による催奇形性,心奇形,行動奇

形など多くの現象の一部はEEGによって誘発されていることが解明されつつある.

  これらの研究成果は,”Toxicology”の学問領域に大きなインパクトを与えることは間違いないであろう.実験動物でもヒトにおいても,生殖細

胞形成,受精から発生過程されに幼児期での化学物質の暴露や育児などがEEGによって,その後の成体の健康状態に大きな影響を与える可能性が

示唆されてた.そのために,生殖細胞形成期,胎児期および新生児期における EEGの問題は,これからの ”Toxicology” において,重要な問題と

なる可能性がある(13).

  日本の生殖・発生毒性学の分野では,すでに長尾哲二ら(近畿大学)による,「雄処理による経世代奇形の伝達」に関してのすぐれた業績がある(14).

彼らのデータでは既知の遺伝毒性物質によって,雄由来の経世代奇形が突然変異と同様の時期特異性をもって誘発されるが,その頻度は突然変異に比べ

て,二桁程度高かった.この現象もEEGによるものと解釈すれば納得できる.これらの結果に関連しては,野村大成の先駆的な成果がある(15).彼

は放射線や遺伝毒性物質による「高発がん性の遺伝」を解析した.その結果,それまで得られていた突然変異の誘発と,生殖細胞の時期特異性が一致

したもののその頻度は,やはり二桁程度高かった.これらの現象も,同様にEEGによると考えれば説明可能である.

  今後.私たちは,化学物質による遺伝子発現の撹乱:EEGを”Toxicology”の基盤としての「基礎毒性」としてとらえ,”Toxicology” に,もっと

発生・生殖毒性の手法を導入して,”Developmental-Epigenetic Toxicology”としてもう一度再構築し直すことが緊急の課題であると考えられる.

  また,生殖・発生毒性学の研究分野では,多くの化学物質について,催奇形性や行動奇形に関する膨大なデータの蓄積がある.これらのデータを

EEGの観点から再検討することも重要であろう.これらによって,前臨床試験,臨床試験さらに臨床医学までをも“Environmental Epigenetic”と

いう概念で,連携した研究分野として包括できる可能性がある.そのため,発生:生殖毒性の研究者への期待は大きい.

参考文献

1.今井 清:毒性試験の基本原則とその方法,安評センター研究所報,17:93-99, 2007

2. Allis, C. D., Jenuwein, T. and Reinberg, D. : “Epigenetics”. Cold Spring Harbor Lab. Press, pp.502, Cold Spring Harbor, New York, 2006

3. Waddington, C. H.: Epigenetics and evolution. Symp. Soc. Exp. Biol., 7: 186-199, 1953

4. Szyf, M.: The dynamic epigenome and its implications in toxicology. Toxicol. Sci., 100: 7-23, 2007

5. Feil, R.: Environmental and nutritional effects on the epigenetic regulation of genes. Mutat. Res., 600: 46-57, 2006

6. Anway, M. D., Cupp, S., Uzumcu, M. and Skinner, M. K.: Epigenetic transgenerational actions of endocrine disruptors and male fertility.

   Science, 308: 1466-1469, 2005

7. Anway, M.D., Leathers, C. and Skinner, M. K.: Endocrine disruptor Vinclozolin induced epigenetic transgenerational adult-onset disease.

   Endocronol., 147: 5515-5523, 2006

8. Shibuya, T., Murota, T., Horiya, N., Matsuda, H., Hara, T. : The iduction of recessive mutations in mouse primordial germ cells with

   N-ethyl-N-nitorsourea. Mutat. Res., 290: 73-280, 1993.

9. Shibuya, T., Murota, T., Tutikawa, K.: Mouse spot tests with alkylnitrosoureas. Mutat. Res., 104,: 311-315, 1982

10. Barker, D. J. and Osmond, C.: Diet and coronary heart diseases in England and Wales during and after the second world war, J. Epiderm.

   Commun. Health, 40,: 37-44, 1986

11. 福岡秀興: 胎生期の低栄養と成人期の疾病リスク-成人病胎児期発症起源説(FOAD説)-,環境ホルモン学会第19回講演会テキスト, 1-8,2008

12. Di Renzo, F., Brocia, M., Giavini, E. Menegora E.: Relationship between embryonic histonic hyperacetylation and axial skeleletal defects

  in mouse exposed to the three HDAC inhibitors apicidin, MS-275, and sodium butyrate. Toxicol. Sci., 98: 582-588. 2007

13. Jirtle, R. L. and Skinner, M. K.: Environmental epigenomics and disease susceptibility. Nature Rev. Genet..8: 253-262, 2007

14. Nagao, T. and Fujikawa, K: Genotoxic potency in mouse spermatogonial stem cell of triethylenemelamine. mitomycin C. ethylnitrosourea.

 procarbazine and propyl methanesulfonate as measured by F1 congenital defects.Mutat. Res.. 229: 123-128.1990

15. Nomura.T.: Paternal exposure to X rays and chemicals induces heritable tumors and anomalies in mice. Nature, 196: 575-577,

1982 (10/12/08初版) 

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